東京高等裁判所 昭和39年(ネ)598号 判決 1965年2月25日
控訴人(原告)
浜口トシ子
代理人
高木定蔵
被控訴人(被告)
日本電信電話公社
代表者
総裁・大橋八郎
指定代理人
河津圭一
他四名
主文
本件控却する。
控訴費用は、控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人に対し金二〇〇万円およびこれに対する昭和三七年一〇月九日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実および法律上の主張ならびに証拠の提出、援用、認否は、次のとおり訂正、付加するほか、原判決の事実欄に記載のとおりであるから、これを引用する。
(被控訴人の主張)
訴外大和重紀より控訴人に対する本件退職金債権譲渡の通知が、昭和三七年一〇月八日被控訴人に到達したことは認める。
(証拠関係)<省略>
理由
本訴請求原因たる事実の要旨は、訴外藤岡謙光は同人が被控訴人公社を退職するに際し同人に給付さるべき国家公務員等退職手当法にもとずく退職金の債権を昭和三七年四月七日訴外大和重紀に譲渡し、同人はこれを更に同年八月一五日控訴人に譲渡したところ、訴外藤岡は同年五月一九日被控訴人公社を退職したから、控訴人は被控訴人に対しその支払を求めるというのである。
しかし、同法に定める退職金は国家公務員等の退職に際し国家その他の使用者から給付される過去の勤労に対する報酬たる性質を有し、一種の後払い賃金たる性格を帯びるものであるから、その支払については労働基準法第二四条第一項本文の適用があり、したがつて、控訴人の主張のとおりとするも、その退職金は直接藤岡謙光に支払われなければならないものであつて、被控訴人は控訴人に対しこれを支払うことができず、控訴人もまた被控訴人に対してその支払を求めることができないものといわなければならない。もとより、退職金(賃金)債権もその譲渡性を否定されていると認むべき根拠はないから、控訴人が真実大和を経て藤岡からその退職金債権を譲り受けたものであるときは、その権利者は控訴人であつて藤岡ではない。しかし、それにもかかわらず、控訴人は被控訴人に対してその支払を求めることができないのである。すなわち、この場合は実体上の権利とその取立権能とが分離し、労働者は賃金債権の譲渡後もなお、その取立権能を保有するものと解すべきである。実体上の権利と取立権能とが分離して帰属することは、求して稀有の例ではない。たとえば、債権者と債権の質権者、債権者と取立命令をえた差押債権者の関係などは皆この例に属する。賃金債権の譲渡当事者の関係もこれと同様に解すべきである。これに反し、譲渡後の労働者に退職金の取立権を否定するときは、譲受人にその取立権を認めることにより労働基準法第二四条第一項本文に違反する結果を容認するか、退職金債権を行使しうる者の存在を否定せざるをえないこととなるであろう。いずれにせよ、その不合理なるは明らかであると信ずる。それ故に、退職金債権を譲り受けた場合でも、譲受人は労働者を介し間接にその支払を受けるほかに方法はなく使用者に対し直接にその支払を請求する術はないものと解すべきである。
債権を譲り受けながらその権利を行使しえないということは、その権利を実行する機会を奪うもので、その譲渡性を容認した趣意に副わないと見えないことはない。このことは、譲渡人がその取立を肯じない場合を考えれば、明らかである。しかし思うに右のような一見矛盾にみえる結論を導き出さざるをえないのは、労働基準法第二四条第一項本文がたんに賃金(退職金)をその支払の面から規制しただけであつて、その債権の譲渡性の面からの配慮を怠つた立法の不備に由来するものである。しかし、その不備はいかにもあれ、法が特に賃金の直接払制を規定している以上、これを無視して賃金債権の譲受人にその支払を求めうる権能があると解することはできない。もつとも、賃金債権も民訴法上の制限内において差押並びに取立または転付命令に服することは明らかであつて、この趣旨からするときは、その譲受が認められる以上、譲受人にその支払を求めうる権能を認めても直接払の趣旨に反しないかとも考えられないことはない。しかし、賃金債権につき差押並びに取立または転付が認められるのは、執行債権につき債務名義があつて、即時給付を求めうる債権の存在が特段の事情がないかぎり確実視されるからである。そもそも、法が賃金の直接払を規定したゆえんのものは、労働者自身が労働力の給付に対する対価を現実に取得することを確保し、これによつて労働力の搾取の行われることを防止しようとするためであるから、労働者がみずから賃金を取得すると同様の経済的利益をうることが、疑もなく明白であるような場合には、賃金債権ないしその取立権がかりに第三者の手裡に帰しても、必ずしも賃金の直接払の精神に反するものとはいい難い。債務名義にもとずき賃金債権ないしその取立権が執行債権者の手裡に帰することの認められるのも、その趣旨においてこれを了解すべきである(この意味において、民訴第六一八条第二項が労働基準法第二四条第一項本文の特別規定であると解することは、妥当ではない)。しかるに、賃金債権の譲渡を理由として譲受人がその支払を請求する場合は、その譲渡の有無および効力が決してしかく明白ではないから、これをもつて差押並びに取立または転付命令を求める場合と同日に談ずることはできない。譲受人が訴訟上その支払を請求する場合は、その譲渡の有無が審理されるから明白となるかのようであるけれども、その審理は譲受人と支払人との関係においてであつて、譲渡当事者においてなされるのではないから、かかる訴訟において譲渡の事実が認められても、いまだこれによつてその事実が疑もなく明白であると解することはできず、したがつて、その支払の請求を是認しては、場合により労働者が実質上賃金を失い、その直接払の趣旨を蹂躪する結果となるを保し難いのである。
してみると、本件退職金債権を譲り受けたことを理由として被控訴人に対しその支払を求める本訴請求は、それ自体失当としてこれを排斥するほかはなく、原判決がその理由を異にするが、これを排斥した結論は結局正当に帰するから、民訴第三八四条、第九五条、第八九条により主文のとおり判決する次第である。(裁判長裁判官長谷部茂吉 裁判官浅賀栄 佐藤邦夫)